昔、独特な売上予測の計算式を使っている社長がいた。式そのものは、今ではもう覚えていない。たしか「前四半期の売上+前々四半期の売上+何かいろいろ……」と続き、その最後に「×0.25」という謎の係数が入っていた。
当時、その会社のシステムを開発していた私は、この0.25がどうしても気になって聞いた。
「この最後の0.25ってなんですか?」
すると、消費者金融出身で、容姿が怖い社長は言った。
「わからんねんけど、これを入れるとビッタリあうねん」
「ほぅ。すごいですね。」
私は、それしか言えなかった。
顔が怖かったからだ。
ところが翌期、実際の売上はあの0.25を入れた式の予測にかなり近かった。
高すぎず、低すぎない目標
この一件以来、あの社長に限らず、中小企業の社長が持っている「感覚」を、私はかなり大事にしている。特に経営に長く携わってきた社長の感覚には、本人ですら説明できない変数が大量に入っている。
市場がどう動いているか。自社の営業力はどの程度か。社員はどこまで無理ができるか。この取引先は危ないのか。今ここで投資すべきか。あと半年耐えれば流れが変わるのか。こうしたものを、すべて表計算に落とせるわけではない。
中でもセンスが出ると思っているのが、売上目標の設定だ。
売上目標は、高ければいいわけではない。低ければ意味がない。通常運転では少し届かない。しかし、組織の行動を少し変えれば届く可能性がある。その「高すぎず、低すぎず、組織の行動を変える水準」をどこに置くか。ここに、かなり経営者の感覚が出る。
市場認識 × 自社理解 × 財務感覚 × リスク許容度 × 組織理解。さらには、野心のようなものまで変数として入ってくる。この計算式を正確に書けと言われても、おそらく書けない。
だからこそ面白い。そう考えると、あの0.25の見え方も少し変わってくる。
0.25とは何だったのか
「直感や感覚で判断する」の反対に、「論理やロジックで考える」が置かれることがある。私は、この対比に昔からあまり納得していない。あの0.25を思い出すと、なおさらそう思う。
少なくとも私には、その社長が当てずっぽうで数字を置いたようには見えなかった。何年も会社を経営し、売上を見続け、市場を見続け、社員を見続けた末に、「このくらい補正すると合う」という感覚が形成されていたのだと思う。その感覚が、たまたま数式の最後に0.25というかたちで現れていた。
つまり、0.25自体に普遍的な意味があるのではない。その人が長い時間をかけてつくった内部モデルが、0.25として表に出ていたのではないか。
論理の手前にあるもの
ここで一つ、論理についても考えておきたい。私は、論理そのものに欠陥があると言いたいわけではない。論理は、与えられた前提から何が導かれるかを検証するための、非常に強い道具だ。
問題は、その前段階にある。そもそも何を前提にするのか。何を変数として採用するのか。現実のどこを切り取り、何と何を同じ概念として扱うのか。そこには、人間の認知や言語の限界が入り込む。
論理的に考えるとき、人は言語や記号を使って現実を整理する。頭の中で言葉にし、概念を分け、関係を整理し、因果を並べ、他人にも説明できるかたちにしていく。しかし、その道具である言語自体が、現実をすでに完全な精度で写し取れるものではない。新しい言葉が生まれ、古い言葉の意味が変わり、それまで一つにまとめられていたものが、後になって細かく区別されることもある。
認知されていても、うまく言語化できないものがある。本人の中には確かに違和感があるのに、それを説明する語彙や概念がまだない。「なんとなく違う」「この人とは組まないほうがいい」「この数字は少しおかしい」。そう感じた時点では理由を説明できなくても、数日後、あるいは問題が起きた後になって、「あの違和感はこれだったのか」と初めて言葉にできることがある。
直感が先に認識し、言語が後から追いつく。そういうことはある。
だから私は、「直感は曖昧で、論理は正確だ」という単純な対比にも違和感がある。論理は、前提から結論を導くことには強い。しかし、その前提を何にするかまでは決めてくれない。
たとえば、「売上=顧客数×客単価」という式自体は明快だ。けれど、売上に影響するものとして、店長の疲労、地域の空気、競合への反応、営業担当者の自信、社長の野心までモデルに入れるべきかどうかは、式そのものからは出てこない。
何をモデルに入れ、何を捨てるか。そこには必ず人間の判断が介在する。そして、言語化・数値化できるものだけを変数として採用すれば、現実の一部を落とすこともある。これは論理の欠陥というより、人間が現実をモデル化するときの限界なのだと思う。
先に答える頭と、あとから考える頭
心理学には、人の判断には大きく二つの働きがあると考える「二重過程理論」がある。ひとつは、経験やパターンから素早く答えを出す働き。もうひとつは、言葉や数字を使い、順序立てて考える働きだ。前者をSystem 1、後者をSystem 2と呼ぶことがある。
たとえば、決算書を見た瞬間に「この数字はおかしい」と感じるのは、前者の働きに近い。その理由を探し、過去の数字と比べ、計算し直すのは後者の働きに近い。直感は答えを先に出すが、途中の計算式を見せてくれない。論理は遅いが、その計算式を一つずつ確かめられる。
ただ、これは二つの頭が別々にあるという話ではない。直感が先に気づき、論理があとから理由を探すこともあれば、論理で考えたことが経験として蓄積され、次の直感をつくることもある。直感と論理は、同じ判断のなかを行き来している。
式の外側を、どう扱うか
MBAで学ぶような数式やフレームワークを否定するつもりはない。論理的に説明できることは、説明できたほうがいい。再現性が高まり、他人にも共有でき、どこで間違えたのかを検証しやすくなる。
ただ、中小企業の経営では、すべての変数を取得できるわけではない。市場データも、統計的に意味のあるサンプル数も、競合企業の情報も十分ではない。そのうえ、人間関係や地域性、社員の気質といった数値化しづらい要素が、経営に大きく影響する。
そんな環境では、精緻な数式を使ったからといって、必ずしも精緻な答えが出るわけではない。入力が足りなければ、式が立派であることと、答えが正しいことは別の話になる。むしろ、長年その環境に身を置いてきた人の直感のほうが、式には入っていない変数を多く拾っていることすらある。
だから、式の外側にあるものを無視しない。ただし、式の外側にあるというだけで、直感を正しいことにもしない。直感が拾った違和感を仮説に変え、検証できるところから確かめていく。説明できなかったものは、次に観察すべきものとして残す。論理と直感は、一方が他方を排除する関係ではなく、互いの死角を知らせる関係なのだと思う。
初心者は一手ずつ考える。熟練者は、盤面を見た瞬間に違和感を覚える。経験とは、一手ずつ考えなくなったことではなく、考えてきた一手が圧縮されていることなのだと思う。
だから私は、大企業向けの教科書から持ってきた立派な計算式よりも、「これを入れるとビッタリあうねん」という0.25を、幾分か信頼している。
直感を、論理で鍛える
もちろん、直感は間違う。経験が偏っていれば直感も偏るし、古い成功体験に引っ張られることもある。だから、直感を無条件に信じればいいわけではない。
ただし、それは論理的思考も同じだ。前提や変数の選び方が間違っていれば、どれだけきれいに論理を積み上げても、間違った結論に到達する。
重要なのは、直感か論理かを選ぶことではない。直感で仮説を出し、論理で検証する。論理で学び、試した結果がまた直感に蓄積されていく。この循環なのだと思う。
それでも私は、十分に考えた末に、論理的に導いた答えではなく直感を意識的に選ぶことがある。考えることをやめるのではない。まだ言葉にならない違和感にも発言権を残す。直感に流されるのではなく、論理だけで現実を言い切らない、ということだ。
あの式の最後に置かれた0.25は、理屈の欠如ではない。式に入れる言葉も変数もまだ見つかっていなかった現実を、ひとまず数字のかたちで引き受けたものだったのかもしれない。